2007年10月21日

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2007年01月27日

東ローマ帝国

東ローマ帝国
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東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」
東ローマ帝国(ひがしローマていこく、395年‐1453年)は、 東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、オスマン帝国によって滅ぼされるまでの1000年以上にわたって存続した帝国。一般に「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」「中世ローマ帝国」とも呼ばれるが、これらの名称はどれも後世の人間による呼称であり、その政府や住民は自らの国を単に「ローマ帝国」と称していた。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ・イスタンブル)。中国の文献では払林国(拂菻國)と表記されている。

目次 [非表示]
1 名称
2 概要
3 歴史
3.1 前期:古代ローマ帝国の再興と挫折(395年-610年頃)
3.2 中期:キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国(610年頃-1204年)
3.2.1 滅亡の危機と帝国の変質 (7世紀〜8世紀)
3.2.2 復活から黄金のマケドニア王朝時代へ(9世紀〜11世紀前半)
3.2.3 帝国の衰退と中興(11世紀後半〜12世紀)
3.2.4 世界帝国東ローマの崩壊 (12世紀末〜13世紀初頭)
3.3 後期:東ローマ帝国の衰亡(1204年-1453年)
3.3.1 斜陽の老帝国(1204年-1453年)
3.3.2 滅亡(1453年)
4 政治
4.1 イデオロギー
4.2 政治体制
4.3 行政制度
4.3.1 属州制からテマ制へ
4.3.2 テマ制の崩壊
4.3.3 プロノイア制度
5 市民
6 文化
7 宗教
7.1 東方正教会
7.2 「皇帝教皇主義」という誤解
7.3 宗教論争
8 法律
9 経済
10 用語の表記方法について
11 関連項目
11.1 帝国史関連
11.1.1 王朝
11.1.2 軍事関連
11.1.3 称号
11.2 都市
11.3 東方正教会
11.4 文化
11.5 民族
11.6 周辺諸国など
11.7 地域
12 参考文献
13 外部リンク



[編集] 名称
しばしば「東ローマ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのか、という議論があるが、当の帝国政府や住民は、自国を単に「ローマ帝国」(ギリシア語:Βασιλεία τν ωμαίν (Basileia tōn Rōmaiōn))と称していたのであり、彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。帝国の一般民衆は、自国を「ローマ人の土地」を意味する「ローマニア(Ρωμανία (Rōmania))」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人(λληνες (Hellēnes))」ではなく「ローマ人(Ρωμαίοι (Rōmaioi))」を自覚していた。

「ビザンティン」や「ビザンツ」は、帝国の滅亡後、19世紀以降に使われるようになった通称である。これらの通称はあくまでも古代から1453年まで続いたローマ帝国の一時期を指す呼称で、以下に述べるようにいわゆる「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いが顕著であるため便宜上用いられているだけである。

「ビザンティン」は英語の形容詞「Byzantine(英語により近い発音だと「ビザンティーン」)」に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞「Byzanz(同・「ビュツァンツ」)」によるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。日本においては、おおむね歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。

カール大帝の戴冠以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシア帝国(Empire of Greek)」「コンスタンティノープルの帝国(Empire of Constantinople)」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。

例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌(Beschrijving von Russland)』の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。

このように自身が古代ローマ帝国の後継者であるとするのは、あくまで東ローマ帝国の側からした主張に基づくのであって、その余の欧州ではその独自の立場から「東ローマ帝国」をさまざまに呼んできた。

しかし、西欧におけるこれらの議論に関しては、彼らが東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立してきた経緯を持っていたことや、議論がなされる中で東ローマ帝国の主張が彼らの価値観によって相対化されてきたことを勘案する必要があろう。彼らにとっては、カール大帝とその後継者たちや神聖ローマ帝国の皇帝こそが「ローマ皇帝」だったのである。

このような考え方に基づく呼称は、日本における呼称として適切・中立的でないとする見解もある。この立場は日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、近年、学校教育における教科書において採用されようやく一般の読書人にも知られるようになった。


[編集] 概要
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を及ぼした。しかし、7世紀以降は疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容し、「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となった。7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、大阪市立大学文学部教授の井上浩一は、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評している。前述の「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島西部を奪還するなど勢力を回復し、皇帝に権力を集中する政治体制を築いたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。

11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから、一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建つに至った。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を誇ったが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。

そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。(詳細はコンスタンティノープルの陥落を参照)

日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、東方正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。


[編集] 歴史
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った(日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する)。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかにマケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。

歴代皇帝はローマ皇帝一覧を参照されたし。


[編集] 前期:古代ローマ帝国の再興と挫折(395年-610年頃)
テオドシウス王朝
レオ王朝
ユスティニアヌス王朝
ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線西ローマ帝国はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し476年に滅亡した。一方、東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保った。そして、西ローマ滅亡後には唯一のローマ帝国の正系として、西ヨーロッパのゲルマン人の諸国やローマ教皇に宗主権を認めさせた。

西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は:

アジア・シリア・エジプトのような豊かな穀倉地帯を支配下においていたこと、
アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいたこと、
首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていたこと、
そして西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させた(これによって西ローマ側の疲弊は進んだ)こと
等が挙げられる。


ハギア・ソフィア大聖堂(周囲の尖塔はオスマン帝国時代のもの)名君アナスタシウス1世の下で力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代になると旧西ローマ帝国領のイタリア・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再び併合することに成功した。またトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る事業を成した。

しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊。ユスティニアヌス1世の没後はサーサーン朝ペルシアとの抗争やアヴァール人・スラヴ人・ランゴバルド人などの侵入に悩まされた。7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った。


[編集] 中期:キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国(610年頃-1204年)

[編集] 滅亡の危機と帝国の変質 (7世紀〜8世紀)
ヘラクレイオス王朝
イサウリア(シリア)王朝
アモリア王朝
混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオス(在位 : 610年-641年)は、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの戦いに勝利して、領土を奪回することに成功した。しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けてシリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。655年にアナトリア南岸のリュキア沖の海戦で敗れた後は東地中海の制海権も失い、674年-678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされた。これは難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功したが、北方のブルガリア帝国などからも攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部・南イタリアの一部に縮小した。

717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年に首都コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国は存続に成功した。しかし、宗教的には726年にレオーン3世がはじめた聖像破壊運動などで、東ローマ皇帝はローマ教皇と対立しカトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異はフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化し、「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分離した(東方正教会。最終的に分離したのは1054年)。

800年にはローマ教皇がフランク王カール1世に「ローマ皇帝」として帝冠を授け(カール大帝)、政治的にも東西ヨーロッパは対立、古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分された。

7世紀には公用語もラテン語からギリシア語へと変わった。こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」と称しながらもギリシア人・東方正教会・ギリシア文化を中心とした国家となった。


[編集] 復活から黄金のマケドニア王朝時代へ(9世紀〜11世紀前半)
マケドニア王朝
9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年-1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。


軍装のバシレイオス2世。彼の治世で東ローマ帝国は全盛期を迎えた。政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世(ブルガロクトノス)の下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノポリスは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。


[編集] 帝国の衰退と中興(11世紀後半〜12世紀)
ドゥーカス王朝
コムネノス王朝
しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。1071年にはマーラーズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入、同じ頃、西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われてしまった。

1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年-1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を狙った。(この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である)。


ヨハネス2世コムネノスの元で帝国は再度繁栄の時代を迎えたアレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年-1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。

ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年-1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊し、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗し、東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。


[編集] 世界帝国東ローマの崩壊 (12世紀末〜13世紀初頭)
アンゲロス王朝
1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年-1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に替わって帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年-1195年)が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。またブルガリア・セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰退していった。

十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権(小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など)を建てて抵抗することとなった。


[編集] 後期:東ローマ帝国の衰亡(1204年-1453年)

[編集] 斜陽の老帝国(1204年-1453年)
ニカイア帝国(ラスカリス王朝)
パレオロゴス王朝

1265年のバルカン半島及び小アジア第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。

3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの死後、摂政、ついで共同皇帝として実権を握ったミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年-1282年)は、1261年、コンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝(1261年-1453年)を開いた。

しかし、かつての大帝国は甦らなかった。ミカエル8世の息子アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年-1328年)の時代以降、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなかった。

そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からはトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年-1391年)はオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。

14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年−1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年−1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1429年−1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。

この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。


[編集] 滅亡(1453年)
1453年4月、ついにオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けたが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、これによって古代以来続いてきたローマ帝国は滅亡した。

1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。

なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世はルーム・カイセリ(ローマ皇帝)を名乗り、またイヴァン4世などロシア指導者はローマ帝国の継承性を主張している(ロシア帝国。もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝もツァーリと呼んでいたし、キリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない)。


[編集] 政治

[編集] イデオロギー
東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明
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